法であるキリストの祭日に、初聖体を受けたり、洗礼を受けたりする子供たちと保護者たちのために、ミサについて説明していて、ちょっとしたことを考えた。ミサに来て、ホスチアをチボリウムに入れ、献金箱に献金する。それは、奉納行列の時に祭壇に運ばれ、司祭が受け取る。司祭は、祭壇上で、神に捧げる。「ここに供えるパンは、大地の恵み、労働の実り、後で、私たちが分かち合う命の糧となるものです」。

パンをチボリウムに入れるとき、それを祭壇まで運ぶとき、太陽や風や水など大地の恵み、引いては、神様の恵みを、そして、種を蒔き、収穫して、パンに焼いた人たちすべての働きを、祭壇まで運び、司祭に手渡す。献金も、そのお金を稼ぐためにどれだけ多くの人たちが汗水轅して働いたか、その働きを、そして、それに心を込めた人と、その人の心を、祭壇まで運び、司祭に手渡す。そして、何よりも、ホスチアをチボリウムに入れるとき、イエス様が十字架という祭壇に自らを捧げたように、自分自身を、捧げ物として捧げる。自分自身も供え物として神様に捧げる。奉献する。

そんなことを一回の勉強で教えたが、伝わったかな。仏壇や神棚、キリスト教では家庭祭壇を見かけなくなった今日、お供えをすることが非日常になった。だから、容易には伝わらないかもしれない。「供」、この字は、人が両手で大きなものを捧げている形だそうだ。献金を、パンとブドウ酒を、両手に持って、祭壇に供えに行く、子供たちの奉納行列は、まさにその形そのものなのだが。

ところで、「献金」というのは、どうかな、と思った。みんながこの言葉を使っているから、別に異議を唱えようというわけではないのだが、献金とは、政治献金みたいに何かの目的のために集められるお金のことだ。だから、「月定献金」と呼ばれる教会の「維持献金」なら、「献金」と言われても分かる。教会の維持ために使うからである。しかし、ミサの場合は、お供え、神様に供え、捧げるものである。仏教でいえば、供養という。それがものであれば、供物である。神様や仏様の前に供えて、捧げるものである。奉納物である。だから、あの行列を奉納行列とも言う。

先日、食事の時、「『ミサ謝礼』という言葉は、どうかな」、「『応分の謝礼を』などと書いてあったありする」という話が出た。決定的な結論が出たわけではないのだが、「ミサ奉納金」がいいのではないか、と言うところで落ち着いた。もともと供え物は、旧約聖書では、値が定められていない。お金持ちは、牛や羊、お金のない人は、鳩や山鳩。どれだけ捧げても、過不足がない。神様への気持ちの表れだからである。新約聖書にも、「やもめの献金」などと題されている箇所がある。お金持ちは、有り余る中から捧げていた。一人のやもめは、銅貨二枚を入れた。イエスは、「彼女は、誰よりも多く入れた」と言った。フランシスコにも、お金持ちが有り余る中から入れているのを見て、持っていたものを全部入れた、というエピソードがある。お供えだからであろう。

湯澤 民夫神父

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