今年も早いもので、もう最後の月である。先週から待降節に入った。そして、珍しくたっぷり待降節を味わう。というのも、待降節の最後の日、24日は土曜日だからである。ちなみに、来年は、最も短くなる。待降節の第四の主日の晩が、クリスマスイブになるからである。今年は、待つ期間が最も長く、来年は短いということである。

11月は、教会の暦の最後の月であるから、終わりを待つ雰囲気に入るが、特に王であるキリストの祭日からの一週間は、終末週間で、世の終わりを待つ、というキリストの再臨を待つ季節ある。これが、待降節に入ったばかりの今の季節は、二千年前のキリストの到来と世の終わりの再臨とが重なってくる。同じ待つ雰囲気であるからである。

待つといっても、色々ある。急かないでジーッと待つという待ち方(俟つ、竢つ)がある。「果報は寝て待て」というところだろうか。忙しなく今か今かと待つという待ち方(候つ)がある。今は、時間に正確で、携帯やスマホで、早すぎても遅れても知らせることができるから、そんなことはないが、昔は、待つ方は、今か今かと、立ったり座ったりして待つということがあった。「午前中に」という時間指定だったからである。

待降節の「待つ」は、やって来るのを待ち(アドヴェント)、来たらあしらえる、つまり、接待できるように用意ができている待ち方のようである。その意味では、待降節に相応しい漢字である。ただ待つのでも、せかせか待つのでもない。いざやって来た時、備えができており、相応しく応じる(もてなす)ことができる「待つ」である。待降節の待ち方は、こんな待ち方をしたいものである。

ところで、もう一つ気になる待ち方がある。互いに求め合って待つ待ち方(須つ)である。私たちは、来られる方を求めて待っているだろうか。そして、相手であるキリストは、本当に私のところに来たいと思っているだろうか。百人隊長やコルネリオのように、「主をお迎えするのにふさわしくない」と自覚しつつ、来てほしいと願望しているだろうか。相愛する者の待つあり方は、幸いな待つあり方ではないだろうか。

湯澤 民夫神父

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