「分ける」と「別ける」は、両方とも「刀」で切り分ける意味だが、「分ける」は、一本の棒を刀で二つに切る形そのものである。他方、「別ける」は、骨を解き分ける意味だそうである。包丁という人がいたのか、台所(包)の仕事をする人(丁)の意味なのか、意見の分かれるところだが、彼は、包丁で牛を一頭捌いても、刃こぼれしなかったというくらいの名人だったようだ。

幼子を捧げるために神殿に行ったとき、シメオンは、マリアに向かって、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と言っている。一般に、息子の磔刑を目の前にして悲しむことを予告する言葉と理解されているが、別の理解もある。幼子が、人を倒したり、立ち上がらせたりする「しるし」であり、心の思いを明らかにするものであるとしたら、彼を前にして、まったく曖昧さのない仕方で、倒れるか立ち上がるか、いずれかを選択しなければならない。この識別と選択から、マリアであってさえも避けられない、と告げている。そう理解できる。しかし、マリアは、受胎告知の時に既に識別し、神を選んでいる。そして、常に同じように識別し、選択したであろうと推測できる。少なくとも、ルカはそう描いている。

いろいろ評価はあるが、Y師は、常に長上に新たな派遣を申し付けられたら、「はい、喜んで」と従うようにしている、と言っていた。私の知っている彼は、実際そうであったし、昨年のケースでも、そうであった。それは、一貫していて、見事であり、その意味では、彼を尊敬している。ただ、心の思いを言わないわけではない。「『終活』と言われた」と言っていた。管区長は、「就活(就職活動)」にかけて言ったのであろう。私は、「それは、『終活』ではなく、『修活(修道生活)』だよ。新しく再出発すること」と言ったが、耳が遠いので、聞こえていたかどうか。

私たちには、年に一度、識別の時を持っている。四旬節である。四旬節と言えば、回心(改心)の時である、とだけ思われがちである。自らの罪を思い、悔い改め、告解して、主の復活をきれいな心で迎える。確かにそうした意味もある。それより、今の自分の在り方が、神の意思に、神の思いに沿うような在り方をしているかどうか、神の思いを選んでいるかどうか、振り返って識別する時でもある。それができていないと、改心も、改心もできない。Y師のような識別の機会は、普段の日常生活では、あまりない。ありきたりの変わり映えのしない、平々凡々とした生活である。だからこそ、教会は、年に一度、意識して自らの在り方を識別する時を、四十日間も設けているのである。

識別と選択には、曖昧さがない。両刃の剣(「(神の言葉は)両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄を切り離す」:ヘブライ書、四・十二)のように。私たちは、ただ躊躇しているだけかもしれない。だから刃こぼれもしない。今年は良い機会だと思うが。

湯澤民夫神父

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